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「Being digital 2007」 その1

Ⅰ.being digital 1995

1995年。
ビル・ゲイツ率いるマイクロソフトから「Windows 95」が世の中にリリースされ、パーソナルコンピュータが本格的に、オフィスや家庭に普及を始めた。1993年当時の米国副大統領だったアル・ゴアによって提唱された、全米のコンピュータを光ネットワークなどの高速回線で繋ぐ構想「情報ハイウェイ構想」が具体化し、世界が「インターネット」と言う情報ネットワークで繋がれ始めた。でも、2007年の現在のようにその事によって、インドのムンバイにITのナレッジワーカーの集積が出来上がる事はまだ想像出来ていなかった、そんな頃。

その1995年にMIT(マサチューセッツ工科大学)のメディアラボの創始者であり、主に表現とコミュニケーションに利用されるデジタル技術の教育、研究を専門とするニコラス・ネグロポンテによって、「being digital」 と言う一冊の本がリリースされた。
この本には、21世紀のコミュニケーション環境についての未来予想図とも言える事柄が詳細に記述されている。そこに描かれる近未来のコミュニケーション環境は、現在のデジタルネットワークでグローバルに繋がれた世界を見事に予見している。
「アトム(物質)からビット(情報)へ」。これがこの書籍の中心に座る視座である。
1995年の時点が「情報化」の時代でなかったとは言わないが、主要なニュースや情報は、「新聞」「雑誌」「書籍」などの物質(アトム)な形でデリバリーされるのが当たり前の時代だった。しかしネグロポンテは、デジタル化と言うテクノロジーの進展によって、「ビット=デジタル化された情報」そのものが価値を形作る主役となり、これまで情報をデリバリーすることによって、主役として見えている「アトム(物質)」(この場合は新聞や、雑誌などのハードそのものの事)は脇役になってゆくだろうと述べている。
振り返って、広告市場において、テレビや新聞を中心としたマス広告の効果に対して近年懐疑的な意見がよせられ、インターネットの広告市場が拡大基調にあると言う事実は、ネグロポンテの主張する「ビットの時代」に我々広告に携わる人間が、本質的な意味での理解と解決策を提示できていないと言う事なのでは無いだろうか?
本論文では、今一度「ビットの時代」の広告コミュニケーションの持つ意味を考察し、そこに必要とされる広告会社の機能論についての試案を提示する事を目的としたい。

Ⅱ.ビット化がコミュニケーション・ビジネスにもたらす影響

広告と言う仕事に携わる人間は、多かれ少なかれ自分の仕事が「情報」に携わる仕事であり、そこから価値を生み出す仕事なのだと言う自負を持っているのではないだろうか?
「何をいまさらビット(情報)なのよ」と言った声が聞こえて来そうであるけれど、今一度「ビット=デジタル化された情報」と言う視点で見た時にこれまでの広告と言うビジネスとのマッチングと言った事について考えて欲しい。
本当に「ビット=デジタル化された情報」と言う事の可能性を生かしきった形で、いま広告と言う仕事が成り立っているのだろうか?

Ⅱ-1.ビット化すると言う事の意味
ネグロポンテはbieng digitalの中であらゆるメディアがデジタル化する事により、全ての情報が等しくビット化すると言う事が起きてくると言う事実を捉えて、二つの根本的、直接的な結果が生じてくるとしている。

①「ビットはたやすく交じり合う」
例えば新聞やテレビなどと言った「メディア」に載っている情報もビット化する事によって、その載っているメディアの種類に捉われることなく交じり合うことが出来る。
結果として、全てのビット(情報)が受け手の側の事情に従って再構成する事が可能となり、そこには新しい価値を持った情報と言う形での再構成が行われる可能性が出てくる。
ネグロポンテはこれを「マルチメディア」と呼んでいるが、今となってはなんとも懐かしい響きを感じる言葉となっている。
とは言え、現状でこの本来的な意味での「マルチメディア」を前提とした「情報の提供の仕組みの設計」を、広告に携わるプレイヤーがきちんと提供できているのかと言う事については議論のわかれるところだろうと思われる。むしろ、cgm(consumer generated media)と言った形で、情報の受け手である消費者が主導的にこれらのビットを再編集して発信すると言う事の主役を担おうとしていると言うのが現状かもしれない。
「広告表現」と今まで定義されてきたものが、デジタル化されたプラットフォームの上でビットに分解される事で、受け手の側に存在する再編集のためのエージェントによって再構成がされると言うこれまで述べてきた出来事は、環境に合わせて自動的に交じり合うビットの「自動適応性」と言う特性によるものである。
今後テレビのデジタル化など、動画を含むビットが、ネグロポンテの主張するように「交じり合う」状態になり、受け手の側で再編集可能な状態で提供されるようになる事は、これまでの「メディアごとの広告表現を考える」と言ったアナログな発想からの大きな変換を要求される事になり、そのコミュニケーションプランで使用される全てのコンタクトポイントのどこで「自動適応」が発生しても、当初設定されたコミュニケーション上の戦略目標が達成できる形での「情報設計」を念頭に置いた広告表現の設計をする「新しいクリエーティビティー」を要求される事になってくると考えられる。

②「新しい種類のビットが誕生する」
ネグロポンテがここで主張した「新しい種類のビット」とは、そのビットがどんな情報を持っているかを知らせる「ヘッダ」であるとしている。
これはビットの持つ「自己記述性」と言う性質であり、ビット自体がどんな性質、内容を持つビットなのかを説明できると言う機能をもつと言う事である。このヘッダが提供する情報によって、情報の受け手である消費者(或いは企業)が自らのインテリジェンスを持って情報を再編集すると言う事が発生してくるとしている。
現在WEB上で展開されている情報のやり取りの中で、「タグ」と言われるwebのコンテンツ内容を表すヘッダをどのような形で埋め込んでおくかが、現在のSEO(Search engine optimization)対策において重要な役割を担っていると言う事などはまさに「新しい種類のビット」がコミュニケーションのフィールドで大きな役割を担っていると言う事だと考えられる。
前述の「交じり合ったビット」を再編集するための記号として、このヘッダは広告の設計上大事なポイントとなる事は明白であり、広告の発信者側の意図に沿った形での再編集が行われ、届けたいターゲットへ確実に到達する事の出来る「情報設計」をする力と言う「新しいクリエーティビティー」がここでも必要となってくる。

「Being digital 2007 その2」へ続く